板留温泉

板留温泉について

川沿いに並ぶ小さな温泉街

温湯・落合・板留と続く浅瀬石川沿いの温泉街のいちばん奥。落合温泉の対岸にある小さな鄙(ヒナ)びた温泉街だ。湯宿のほかには何もない。すぐ近くに、中野の紅葉山、黒森山の浄仙寺があり、また他の温泉街を散歩することもできるから、何日いても飽きない。このあたりの温泉のなかでは、いちばん温泉の成分が濃い感じがする。  かつて、湯宿の並ぶ山手側と道路をへだてた反対側、丹羽旅館の向かいを川へ降りていったところに小さな共同浴場があった。階段を降りると番台の小屋があり、その先の湯小屋は、すぐ下に川が見えた。ただ湯が湧いているだけの、じつに素朴な、情緒溢れる共同浴場だったが、古くて危険になったためか撤去されて、いまはない。
    一椀の芋を分かちて君と吾 うき世の外の月を見るかな
この歌は、大正11年(1922)大町桂月(オオマチ・ケイゲツ)がこの地を旅したときに詠んだもので、山形街道の板留に入る入口に建っている。板留は、文学とも馴染みが深い。

温泉と文学と交流と

この板留にある丹羽旅館は、青荷温泉を開いた歌人・丹羽洋岳(ニワ・ヨウガク)(1889~1973)の実家である。
洋岳は、少年のころ病いのために高等小学校をやめ、文学を志すようになった。黒森山浄仙寺の二世で親戚の寂導行者(ジャクドウギョウジャ)を頼って「黒森学校」に学ぶ。のちに文学者が集まるようになる浄仙寺が、少年の文学への思いを強くした。やがて、石川啄木と若山牧水(ワカヤマ・ボクスイ)に短歌の添削指導を受けた。42歳のとき、青荷の渓谷に湯小屋を建てて移り住む。
大正5年(1916)3月、若山牧水が洋岳を訪ねて、丹羽旅館に二十日のあいだ逗留する。大正6年からは、夏になると毎年のように、黒石出身の歌人で新劇作家・秋田雨雀(アキタ・ウジャク)(1883~1962)が、丹羽旅館を訪れるようになる。黒石などで文芸講演会を開き、ふるさとの文化を啓蒙しようとした。雨雀の友人で黒石出身の口語歌人・鳴海要吉(ナルミ・ヨウキチ)(1883~1959)も、しばしば板留に洋岳を訪ねている。

黒森山浄仙寺

こんこんと湧く泉の傍らの石段を上がると、かやぶきの仁王門があった。門のむこうに綺麗に手入れされた草むらの庭園が見える。黒森山が借景になっていて、山に囲まれた美しい寺である。長靴履きで庭掃除をしている人がいて、声を掛けると住職だった。境内のなかに造った茶房でコーヒーを入れてくれる。「コーヒーが飲めます浄仙寺。用のない人はぜひおいでください。」と住職は言う。少し変わったことを言うが、これがこの寺の伝統だ。
文政7年(1824)、黒石の来迎寺(ライコウジ)の修行僧是空(ゼクウ)(1798~1876)は、中野不動尊の洞窟で夢枕に立った仏のお告げにより、黒森山の中腹の泉が湧き出る場所に庵を結んだ。この庵がのちに浄仙寺となる。米と塩を断ち、草木の根を食む。畑を耕し、大豆・粟・麦を植える。山とともに生きる、念仏三昧の修行だった。
二世・寂導行者(1812~1904)は板留の人で、丹羽旅館の親戚にあたる。文政8年、13歳で入門し、是空行者とともに修行した。一刀彫りの木像の仏が各地に遺っている。是空・寂導の師弟は、二人ともたいへんな学僧で、寺小屋を開いた。寺小屋は、明治になって、「黒森学校」となる。津軽一円から集まり学んだ者のなかから、さまざまな人材を出した。そのなかに寂導の親戚にあたる丹羽洋岳もいた。
浄仙寺の奥の雑木林の森のなか、石段を昇ると、いくつもの文学碑が立っている。この寺に縁のあった文学者は多い。
    ひとさしを わが手のひらに おしあてて
        文字を教えし 父のなつかし(秋田雨雀)
    いのちあって
        迷わぬものはどこにある
      あれあのとおり
           雲さえまよう(鳴海要吉)
    山寺の庫裏の後の栗胡桃
        栗鼠にまかせて人影もなし(丹羽洋岳)

中野紅葉山

亨和2年(1802)、弘前領主津軽寧親(ツガル・ヤスチカ)が京都から百余種の楓苗を取寄せて移植した。その紅葉の山に中野神社と不動館城跡がある。黒森山浄仙寺を開いた是空行者が仏のお告げを夢に見た不動尊は、この中野神社であった。境内に樹齢二百年のモミジとモミの木、樹齢五百年を超える大杉がある。燃えるような紅葉が滝と渓流に映える。江戸時代、菅江真澄も訪れ、その美しさを愛でた。

板留温泉の基本情報

施設名各施設一覧
泉質ナトリウム・カルシウム・硫酸塩泉(低張性中性高温泉)
効能神経痛・筋肉痛・皮膚病
交通弘南電鉄黒石駅から弘南バス「虹の湖」行きで25分

※掲載情報は平成20年2月時点のものです。各施設の営業日・営業時間・料金・条件等は事前にご確認ください

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