浅虫温泉郷

絶景の湯

浅虫温泉郷について

奥州街道の湯治宿

浅虫は、歴代の弘前領主も訪れた古い湯治場。江戸時代から、菅江真澄(1754~1829)など、多くの旅人が浅虫の湯で心を癒した。太宰治の『思い出』『津軽』で語られ、佐藤紅緑(サトウ・コウロク)の『鳩の家』の舞台となった。
東北の湯治場には慈覚大師円仁(ジカクタイシエンニン)が見出したという伝説が多いが、この浅虫もそのひとつ。浅虫という名前の謂(イワ)れは、「麻を蒸す」。麻から糸を取るのに糸釜で蒸す代わりに、この地では温泉の湯船に入れたからだという伝承は、菅江真澄(スガエ・マスミ)の遊覧記にも記されている。
湯治場になったのは江戸時代になってからで、始めは椿の湯一軒だけだった。菅江真澄が訪れた天明8年(1788)には、滝の湯・目の湯・柳の湯・大湯・裸湯など、12の湯に増えている。弘前領主の本陣が置かれていたのは庄屋の柳の湯で、その時代のヒバの湯船の造りを変えない「御湯殿」がある。

義経伝説

善知鳥崎は、浅虫の街の西にある。いまは国道にトンネルがあるが、明治9年(1876)に明治天皇が巡幸する以前は、波の被る岩の上に橋が掛かる街道の難所だった。菅江真澄も「善知鳥前の梯」(うとうまえのかけはし)について、たびたび日誌に書きとどめた。
善知鳥崎の「うとう」はアイヌ語で突端を意味する。岬ということだ。じつは、この善知鳥崎は、古戦場でもあった。
義経が衣川の館で自害し、平泉の藤原氏が滅びた文治5年(1189)の年の瀬、死んだはずの義経が奥州で兵を上げたという知らせが鎌倉を驚かせた。義経が木曾義仲の息子・藤原秀衡の息子と合力して、鎌倉に攻め入ってくると言うのである。義経の名をかたって兵を起こしたのは、秋田五城目領主・大河兼任(オオカワ・カネトウ)。安倍頼時の5代の裔だと言い、同じく安倍氏の血を引く奥州藤原氏の係累にあたる。いっときは平泉を征し、1万の軍勢となっていた。
だが、兼任の勢いもここまで。衣川の合戦に破れて、再び北へ逃げる。「たうまい」(善知鳥崎)の山を城として闘ったものの敗れ、落ち延びるところを討たれる。文治6年3月、三ヶ月ばかりで乱は終わった。その顛末が『吾妻鏡』に書かれている。
義経は生き延びて北へ逃げた。その伝説は、兼任の乱から生まれたとも言える。

棟方志功を癒した浅虫の風景

棟方志功も、この温泉をこよなく愛した一人である。目に効くと聴いて、家族や弟子たちと湯治に訪れ、周辺の風景を描いた。常宿は椿館。この宿には数多くの志功の作品が残されている。部屋に紙を敷いて猛然と筆を走らせ絵に立ち向かう、その姿が写真に残されている。
昭和38年(1963)夏、志功は「ころび山」で浅虫の観光ポスター用に風景を描いた。山から見える湯の島の浮かぶ入り江、桟橋と小舟。棟方はここに「浅虫へ 海も 山も 温泉も」と書き添えた。原画は椿館玄関に飾られている。
志功は松木満史(マツキ・マンシ)(洋画家)や古藤正雄(コトウ・マサオ)(彫刻家)と、八大龍神宮(ハチダイリュウジングウ)の扉に絵を描いた。志功はここで度々風景画を描いていた。志功が賞をとり有名になると盗まれ、この扉は今は行方が知れない。
浅虫の湯で目と心を癒した志功は、穏やかな作品を好んで作るようになった。

湊街に百年伝わる和菓子

明治24年(1891)に東北本線が開通し、浅虫は大いに賑わうようになる。そのころ、浅虫にひとつの名物が生まれる。「久慈良餅」だ。浅虫に「久慈良餅」を作る店が、いまは4軒ある。鯨餅は、もともとは京都の和菓子。北前船で日本海伝いに最上川流域や鰺ヶ沢などに広まった。浅虫へは、鰺ヶ沢から伝わる。
浅虫の「久慈良餅」を始めた永井吉兵衛は、鰺ヶ沢の廻船問屋に婿入りしたものの、すでに時代は海上の交通から鉄路へと移り、商売は傾きかけていた。そこで、明治40年(1907年)、温泉街として賑わっていた浅虫に移って、鯨餅店を開いたのだった。この当時4軒あった鰺ヶ沢の鯨餅のいずれかに作り方を教わったらしい。生姜を入れないこと、胡桃を入れること、名前を「久慈良餅」にしたことは、吉兵衛の編み出したことだ。2007年でちょうど創業百年になった。

浅虫温泉郷の基本情報

施設名各施設一覧
泉質 ナトリウム・カルシウム – 硫酸塩・塩化物泉
単純温泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
効能切り傷・火傷・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病・動脈硬化症
交通JR東北本線浅虫温泉駅下車

※麻蒸湯札・・・1,200円で3件まで温泉の日帰り入浴ができる。
※掲載情報は平成20年2月時点のものです。各施設の営業日・営業時間・料金・条件等は事前にご確認ください

タイトルとURLをコピーしました